2010年10月11日月曜日

DCPRG

雨の野音。20世紀少年を連想するイントロの台詞。かっこいいパーカッション。でもどことなく普通。意表をつく感じが無い。そうしているうち、全く追えない曲。DCPRGは初めてだったが、直前のインタビューで「00年は結局ポリリズムとポリグルーヴだった」という内容を知り、アフロポリイを聞いて、読んで時のごとくポリ=多であるということを知ってしまった先入観は無かった方が良かった。昔ディスコからクラブへ変わりだした頃、元々二拍三連が大好きな自分のキャラも手伝ってだと思うが、ノリを15/16に置いたり、リズム自体を完全にズラして踊って喜んでいた時代がある。ポリリズムやポリグルーヴという言葉は今まで知らなかったけど、それは音楽的なものより、数学的なパズルのような感覚であり、かかっている曲のリズムの内側に自分だけのリズムを見つける面白さだった。端から見れば酔っぱらいのようと言われてしまう恥ずかしい様態であったが、自分だけが見えている秩序をなぞっているという、利己的(独善的)な価値を楽しんでいたのだ。だがそれは自分の中では踊りというか、ある種のシンクロであり、音楽ではない。そうした感覚をかつて持っていたせいか、向こうがポリグルーヴで来てしまうと、自分の居場所を見つけるのが大変。例え3本線の中に細いステッチを見い出したとしても、むしろその利己的価値を見い出せないのだ。しかもDCPRGの音程は通して無属性的であり、それはポリグルーヴの宿命であるかのように響く。もしメロディアスな抑揚のある音程であれを通したら、それは単にオブラディオブラダとイエスタデイを同時に演奏しているだけになってしまうかのようだ。実際は分からない。単にPAのせいで音がつぶれてしまったのか、耳が悪いだけなのか、カッパや雨のせいなのか。だが確かに無機質な、それでいて、一定の範囲に収まっているように聞こえたことは間違いなく、それが超人的バランス感覚のなせる技なのか、プロのマジシャンなら誰でも使う常套手段なのかはわからない。ただ音は弱い。それは最後のデザートで顕著だ。最後のデザートはまるでちょっとは偉くなって里帰りした息子のような照れくささを醸し出していて、菊地さんのあの人の良さそうな笑顔そのままに、みんなに「ただいま」と言っているようだった。つまり凄い曲というわけではなく、誰もが抱くであろうハートウォーミングな懐かしい感覚、夏休みの夕暮れ時のような曲であり、だから逆に尖ったところが無く、サプライズが少ない。まとまって*しまっている*感。つまりこれを音楽として、それ以前は超音楽なのだ。分かりやすく言えば、呪文。自然現象。写生。そして菊地さんはやはり先生。もしこの先、その生徒さん達が世を席巻することがあれば、父と称されるに違いない。そういえば10/1から新国立美術館でゴッホ展が開催されているのを、野音に向かう途中の表参道駅の美しいポスターで知ったが、これも偶然ではないのかもしれない。

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