2011年10月16日日曜日

『アインシュタイン その生涯と宇宙』を借りる


渋谷中央図書館で『アインシュタイン その生涯と宇宙』(上下巻)を借りた。(それにしてもことえりの変換はどうにかならないものだろうか。)下巻は改訂版だったので、ヘンテコな機械翻訳的誤訳で意味不明な文章を読まずに済むはずだったが(と思っていたが)、機械翻訳疑惑とは関係ないはずの上巻の謝辞で、いきなり文章がおかしい。まるで自分の文章レベルではないか。

いきなり1行目(p7)から(以下引用)
「アインシュタイン文献集の監修主幹であるダイアナ・コーモス・バックウォルドには膨大な量の草稿を熟読していただき、多数の意見を提示し修正を加えていただいた。」(引用終わり)

せめて”多数のご意見を頂戴し”ぐらいあっても良いはずだ。

また続く”修正を加えていただいた”だとダイアナさんが修正した意味になるが、最終的な文章は著者が書いたであろうから、ニュアンス的には修正案を貰ったとか、誤りを指摘して頂いたとか、そういう意味ではないだろうか。

もしそうだとすると、”多数のご意見や誤りをご指摘頂いた”、的な文章になってくる。ただそこは定かではないので、原著を入手して調べる他無い。

続いて、同じページの8〜9行に(以下引用)
「ゼーヴ・ローゼンクランツには、本書でアインシュタインのドイツへの姿勢やユダヤ人として継承する物についての洞察を提示してくれた。」(引用終わり)

とある。”ローゼンクランツには”で始まっているのだから、”提示してくれた”で終わるのはおかしい。”提示してもらった”などの受動的表現?になるべきだと思う。もしくは逆に"ローゼンクランツは”とするか。

また、”本書で”というのが如何にも日本語になっていない。”本書で主張すべき”とか”本書で伝えるべき”といった表現でないと、文章にならない。

また、全体を通して”いただいた”はひらがなのようだが(全文確認したわけではない)、これも漢字で(”頂いた”、”戴いた”で)良いのではないか。ただしこれはあくまで自分の感覚の問題かもしれない。

些細な事だが、こうした難解な本は、ただでさえ内容が難解なのだから、すらすら読めないと辛いものがある。もし終始このような書き方なのだとしたら、理解出来ない部分が、まず、内容なのか、文章自体の問題なのか、見極めなければならない。これは大変だ。

実は自分が真っ先に読んだのは『第20章 量子のもつれ 1935』である。自分のある物について知っている人は、それがこの中に書かれた重要な要素に由来することを見抜いていたかもしれないし、自分が20章から読んだことを知れば「だからこれなのか」と納得されるかもしれない。それだけ自分にとってのアインシュタインに対する疑問というのが、量子のもつれと局所性、そこに関係する微視性もしくは巨視性における近似について、本当のところ、どうあるべきだと思っていたのか、ということだからだ。もしかしたら何か核心的な答えが書かれているかもしれない。本書に期待していたのは正にその一点だった。だが残念ながら、自分には難解すぎて(それは訳の問題ではないと思う)、アインシュタインの”それらしい”答えというのが、何を意味しているのか、残念ながら理解できなかった。

自分は波動関数(自体をまるで理解していないのに言うのはおかしいと思うが)の収束と物理的な実在化は別物だと思っている。得てして数学は物理的にはなり得ない部分があるからだ。例えば無限は実在しない。プランク定数以下に分割できないわけだ。つまり宇宙は量子化されていて、無限に分割することは出来ないのだ。だがアキレスと亀の問答のように、ある距離の半分の半分の半分の...という具合に数学的に思考する上では無限を生じさせることが出来る。しかし、それを勢い物理世界に持ち込むことは出来ない。なぜなら前述のように無限に小さくは出来ないし、それを観測する時間も無限に短くは出来ないからだ。つまり本当にそのような実験を行い、永遠にアキレスが亀を追い越せないことを正しいとするためには、時間が止まった状態にいつまでも留まっていることになってしまう。しかしそれは実際には起こりえないのだ。なのにそれを無視して、あるいは素知らぬ振りをして、まるでパラドックスのように感じたり、そう思い込ませるような言葉で問題や回答が提示されたことがある(というか、最初に問題を知った20年ぐらい前はまだ商用インターネットもなく、身近に合った雑誌か何かの情報がそうだったというだけかもしれない)。

しかし一方で、というかもう1つ別な考えとして、波動関数が適用されるのは、あくまで量子的に小さいエネルギー(例えば光子)だけだというものがある。

よく言われる観測することで収束するというのは、目視ではあり得ない。それはあまりに馬鹿馬鹿しい。というか、馬鹿だ。つまり、言い換えれば、実在に収束するには、観測されることが必要で、その観測とは、すでに実在化したより大きなエネルギーを持つ物質か、同じような中途半端な状態にあるエネルギー体と接触するということだ。と自分は想像している。

このような重ね合わせの状態でいられるエネルギー体は、ある種”若い”とか”生まれたて”という、単純に個体と液体の関係になぞらえても良い、ある特別なエネルギーの状態であって、人間丸ごとまで大きくなくても、分子数個、あるいは1個でも、その原形を保ったままでは重ね合わせ状態には成り得ない。超高速での衝突などにより、原形が崩されることが必要で、そうなることで初めて個体が液体になったときのように”変形し得るエネルギー体”、つまり一段階レベルが下がったというか、若返ったような状態になり、重ね合わせの状態を取り得るエネルギー体になるのだと思われる。

ここでエネルギー体などというインチキな表現をしたが、粒子のように一粒一粒数えられるものが、どろっとした曖昧なものに変わった(変わり得た)としても、エネルギー量は同じであり、それ以上細かくならない物理的最小単位なのであれば、そのどろっとした状態で1まとまりになっている、つまり一粒と同じ量のエネルギーを持っていることになる。こうした粒に見えるか見えないかに関係なく”1つ”と数えられる単位がある物体としてエネルギー体と表現した。

とまあ大きく話は脱線したが、この本の内容についての評価は非常に高いので、機械翻訳問題が無ければ、もっと素直に読めたかもしれないが、しかし謝辞の日本語レベルでは如何なものか、ということと、ジョブス氏が直々に頼んだ事で話題にもなったが、原著は元々評価が高いのだから、原著で読める物なら読んでみよということかもしれない。

ちなみに量子のもつれという属性は、積もり積もって社会現象や感情のもつれとなって現れてくるのだと思う。これ本気。

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