2011年8月11日木曜日

大袈裟

洗脳や世論操作といえば、何かこう大規模な、あるいは強烈な個人の人格をも破壊するような行為、を指す言葉だと思う。第三インターネットで語られているような「洗脳」は、単なる「宣伝」「プロモーション」であり、それを誰も洗脳だとか世論操作だなんて思わないのは当然だ。それに踊らされるのも、実害がないどころか、暇つぶし程度に娯楽であるからでしかない。

そうした「広告」をなぜ「洗脳」などと、大袈裟にぶち上げるのだろうか。そういうところがご近所びいきな昨今の言動と相まって、まあ、音楽理論の講義やサックスの演奏に魅了されたからといって、すべてを崇拝する必要は全くないとは常々思っていることであり、つい最近も、あろうことか、彼の渡辺香津美さんに向かって、可愛さ余って憎さ百倍とばかりなツイートをしてしまったり、そもそもそれ以前に氏のツイートの内容が堪え難く、フォローをやめてしまうという、「KAZUMI WATANABE」と西新宿の大ガードの露天でシルバーの指輪に刻んでもらい、いつか自分も渡辺香津美のような前人未到の凄い曲を書くんだと心に刻んだ10代の自分には想像すらできない暴挙に出ている昨今、こうした違和感が自分の気持ちを無性に曇らせる。

例えば人は、行列に並んでみる、ということをする。それが何の行列かも分からずにだ。えー?っという人もいる一方、は-ぃ、と小さく手を挙げる方もいるだろう。しかし、たとえサクラを使って行列を作ったからといって、それを洗脳といったら笑われるはずだ。

行列する店、例えば自分が分かりやすい例でいうと食べ物屋さん(ラーメン屋さんとかケーキ屋さん)での経験でいえば、長続きする店もあるし、一瞬で終わってしまう店もある。だからその並んでいる間がブームなのだ。どのぐらい短ければブームで終わるのかは分からないが、渋谷系なる自分には到底音楽とは思えないものが、人様にとって如何に素晴らしいものであろうと、自分には関係ない以上、洗脳とは言えない。代理店というマスメディアによる無差別的な洗脳なのであれば、自分も洗脳され、CDの1枚も買って良さそうなものだ(ダウンロード1曲でも良い)。意に反することを強制してこそ洗脳なのであり、暇つぶしのネタを提供するのは、単なるサービスでしかない。

サービスといえば、ある方が如何になんだかの時間(要するに空き時間のこと)を奪うかが、ケータイとかスマートフォンなどのビジネスでは最も重要である、とか何とか、教えて頂いたことがあるが、まさにそういうこと。


疑義のついでに、今度(2011/9/4青山CAY)のHot Houseに行くときの話について。(2011/8/11現在のBRAND NEWS

同性愛者のカップルの方は、一方が男装、もう一方が女装でお願いします、とあったが、これも、同性愛もしくは同性愛者という言葉を大きく誤解、あるいはわざと誤用しているように思える。でなければ、映画『フィラデルフィア』の主人公のようなカップルも、どちらかが女装しなければならないというのだろうか。自分には自分自身を含め、同性愛者の知り合いすらいないのだが、TVでみたり、実際に街で見かけた同性愛者の方の格好が、男は男装、女は女装、だったし、それは極めて普通というか当然だと思う。むしろ異性カップルを装っていたら、同性愛者には見えない。し、それは実際同性愛者ではない可能性のほうが高いのではないだろうか(一方の方が性同一性障害)。それとも「いやいやそれは特殊なドレスコードであり、ワタシは同性愛者を差別しているのだ」とでも言うのだろうか。いくらなんでもそれは有り得ないだろう。だが女装が趣味でもない自分がもし、「お前は女装してなら入場を許可する」と言われたら、行く訳がない。トム=ハンクスあるいはアントニオ=バンデラス扮する同性愛者の男性であっても、それは同じではないだろうか。

だがこうして書き出しているうちに、自分を思い出すことができ、納得出来た。尊敬する人に対し、敬意を抱く理由とは関係ない事とはいえ、疑義を唱えるというのは、気持ちのいいものではない。だがそれで非常に暗い気持ちになるのは自分を見失っているからなのだ。何も自分の意見が100%正しいということではもちろんない。だが自分の考えを意味も無くねじ曲げる必要はない、つまり、それらは両立するのだ。両立すれば、矛盾はなくなる。矛盾がなくなれば、気持ちは晴れる。

今日はこれから予定通りであればペン大で授業があるはずなので(校長の体調が回復なさっていれば)、自分を取り戻せたことは非常に良かった。

今までなら自分の中の矛盾を押さえれず、こうしたことをメールしたかもしれないが、あらゆるメールを歓迎するのでどんどん送ってくださいと言いつつ、面と向かって態々批判しに来ないでくださいと言われる(確かそんなことが日記のどこかに書いてあったと思う)のだから、きっと前者は社交辞令だったのだろう。だから批判的なメールを送るのは、本当に喧嘩も厭わないのでない限り、やめよう。

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