2010年7月26日月曜日

ラウル・ゴンサレス・ブランコ


今日、現地時間13:00、日本時間20:00から会見がある。とばかり思っていたら、送別会と会見となっていた。送別会ということは、引退か、移籍か。いずれにせよもうマドリーのユニホーム姿を観ることはできないことが、悲しくも確定した。もしラウルの退団が決まったら、まず私は泣くと思っていたが、彼がいなくなる事実が予想に反して少し早く発表されたことで、それを事実として受け入れやすくなった気がする。驚いたせいもあるし、どこに行くか、グティもはっきり言わなかったように、まずマドリーを去るという事実だけを受け入れるということは、とても大切なことだというのが分かったことが大きい。

もし本当にシャルケ04に移籍したら、CLで決勝に行ってほしい。そして優勝してほしい。

バルセロナとスペイン代表の活躍で、世界中が彼らのサッカーを目標にするようになったが、シャルケ04にはぜひ、スペクタクルなサッカーではなく、それを超える芸術的なサッカーを見せてほしい。ラウルのサッカーは本来、そういうサッカーだから。そうすれば彼自身、自分を取り戻すはず。そうしなければ、そういうサッカーはできないから。

芸術的なサッカーとは何か。言うまでもなく私見であるが、では私にとって芸術とは何か、芸術的とは何を指すのか。


私にとって芸術とは、発見であり主張だ。例えば世の中のあらゆる事象は、例え人が発明したものであっても、実は初めからそこにあり、見つかるのを待っているにすぎない。発見とは人が(知り得る)他者に先駆けて新たな事象を認識することだ。そして主張とは、その無限の事象から1つを選択することである。人は多くの事象を目撃し、体感し、見逃す。そして時に完全に無視するかと思えば、完璧に執着もする。意思が人であるなら、黙っていては何も伝わらない。伝えたいかどうかも含めて意思であるが、意思をもって何かを伝えようとするとき、無限の事象から1つを選択する行為がそこで生まれる。それが他者がまだ見ぬ発見であるとき、それは芸術になる。

だとして芸術的とは何か。サッカーはゲームだ。そこで選手個人が私のプレーは芸術だと言えば芸術になり得る。しかしそんな選手はいない。だが、はたから観てそれが芸術に映ることがある。まるで芸術のようだ。こう表現したいとき、それは芸術的ということである。


ラウルのサッカーとはまさに芸術的である。彼のプレーは、ジタンのような華麗なプレーとはほど遠いスタイルでありながら、他者には無い、目を疑うプレーの連続である。確かに近年、特にイエロが追われる形でマドリーを去ったがために第一キャプテン(*)にならざるを得なくなってからは、何か彼の内面に、サッカーに没頭出来ない集中力の減少を感じている。葛藤。矛盾。違和感。年々そうしたものが、ある種衰えとして見なされがちだったが、それ以上に精神的なものではないだろうかという思いに2年前、彼のゴールパフォーマンスが決定的な裏付けを与えた。若い頃のように自分の背中の名前を両手の親指で示す、あれである。聞くところによると、お子さんがそれがいいと言ったからということらしいが、定かではない。だが自分を誇示するようにも見えるパフォーマンスは、全く誇示する必要のない彼に対して、もの凄く不釣り合いに映る。


もしマドリーを離れることで、自分らしさを取り戻すことができれば、かつての芸術的なプレーの連続で、ファンを魅了するに違いない。特によく言われるゴール前へのワープより、私のお気に入りは、相手選手に向かって敢えて突進していくプレーだ。彼は滅多にドリブルをしない。少ないタッチで軽々とボールを動かし、ゲームをコントロールする、ポゼッションの申し子のような動きが得意だが、時にポストで受けて静止し、そこからひと呼吸置く間に3人ほど背中に抱えたかと思うと、くるっと反転し、相手の間に強引に体をねじ込んでくぐり抜けていき、実にヘンテコな体勢でボールをゴールに押し込む。またこのボールに勢いが全くないのにキーパーが取れないから凄い。こんな観ている側の心臓が止まりそうになって後からどっと歓喜が押し寄せるプレーは、他の誰にも出来ない。





*レアルマドリードでは、キャリアの長い順に第1〜第4キャプテンになる決まり(伝統)があると聞いている。

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